11.10.2011

DJ NORI Interview


Manhattan Recordsで先日DJNORIさんへのインタビューが掲載されていたので転載。
Manhattan RecordsはDJのプレイリストやインタビュー、コラム等ただレコードを販売するだけではなく、店頭でスタッフやその環境で知れる情報を、サイトに盛り込んでいます。

Blogもあって興味深く閲覧している。

このNORIさんのインタビューにしても当時の話を知れる貴重な話。
今の自分が育ってきたCLUBとは全く違う時代。

Manhattan Records DJ NORI Interview


30年を超えるキャリアを持ちながらも常に現場主義、最前線で活躍を続けるDJ NORI氏。今回、マンハッタンレコードがオファーしたMIX CDについてお話をお聞きすることになっていたのですが、のりさんの北海道時代までにさかのぼり、懐かしいお話が伺えました!


Q: まず最初に、お生まれになった登別には何歳までいらしたんですか?


DJ NORI (以下N): 高校卒業までだから、18歳くらいまでかな?とにかく全く何にも考えずに野球ばっかりしてたよ。キャッチャーをやってたんだけど、高校二年生の時にひじを壊すまでは真剣にプロ野球選手になろうと思ってたからね。 日大付属にいたんだけど、野球では勿論有名なのと同時に悪い奴らも沢山いたことでも有名だったね(笑)中学生くらいから音楽にもハマってたから、音楽と野球にあけくれてたよ。



Q: 音楽の聴き始めはやっぱり洋楽なんですか?

N: いや、最初はフォークソングだったな。周りにアコースティックギターをやっているやつがいて井上陽水とか吉田拓郎とかNSPとかね。73年~75年当時は自分の友達含めて、みんなコピーしてたからね。

俺は、キャッチーミットを磨いてた野球一筋って口だったから、楽器はやらなかったけど、友達のライブをみるのが好きだった。野球は小学生の時から続けてて、自分達の代は行けなかったけど、一つ上の先輩が秋の地方大会で優勝して、春の選抜高校野球に出たから甲子園の雰囲気も味わった。でも、成長するにともなって段々と自分の野球の実力とか分かってくるんだよね。高2辺りでそれが結構シリアスに分かってしまって。だから高3の時とかちょっとグレかかったね(笑)目標もなくなったし、野球も辞めようか考えたけど、“最後までちゃんとやれ!”って、監督に止められてね。

最終的には最後まで続けたし、この続けたことが後から考えても凄く良かったと思ってる。“やり遂げた”ってことが後々心の支えになったことも沢山あったよ。



Q: 野球も一段落して、いよいよ音楽の比重が高くなっていくわけですね。

N: そうだね、環境もそんな感じだったしね。音楽好きの友達も沢山いたし、近くにあったバーのマスターや、DJをやってる先輩とかが身近にいたので、その面白さにどんどんはまっていったね。

自分で音楽をかけて、世界を作って行く感じとかが特に面白くて、特にDJへの憧れが大きくなっていった。“フリークアウト”っていうバーのマスターにとても良くしてもらって色んな事を教えて貰ったし、早い時間にそのお店にいくと“レコードかけていいよ”っていってくれて。

ディスコとかだと78年~79年当時にはすでに、ターンテーブルにピッチコントロールもついたものを使ってミックスしてたけど、自分は音の切り替えのスイッチで2台のターンテーブルを使って交互に曲をかけてた。

札幌には当時から“北海道ディスコ協会”ってのがあって、そこを仕切っている人や、レベルの高いDJいたり音楽的にも進んでいた。ガンガン盛り上げる人もいれば、じっくり世界を作って行くタイプのDJもいたり、いろんなスタイルのDJがいて、週末にかかわらず平日も夕方から翌朝3時とか5時とかまでやってたよね。



Q: 当時はどうやって音楽の情報を得ていたんですか?

N: 当時は札幌の「シャカマンダラ」っていうお店にいたんだけど、ビルボードのトップ10も勿論だし、当時東京に(高橋)透さんも所属していた“全国ディスコ協会”っていうのもあったので、そこからも色々教えて貰えたしね。

当時配られていたTOSHIBA EMIのプロモに紙が入っていて、そこにすでにNYに行って帰ってきた透さんが、ABBAの“Lay All Your Love One Me”をプッシュしてたこともあったな。たまに東京に行くと、また違った情報が得られたりして、東京への憧れも芽生えてきた。東京では「ファーマーズマーケット」っていうディスコが六本木スクエアビルの2Fにあってそこにも良く行ってたよ。

同じくスクエアビルの8Fに「ネペンタ」っていうディスコがあって、元々はソウルとかファンクがかかるファンキーな感じの店だったんだけど、内装や音の雰囲気も変えて、ディスコ、ニューウェーブ、ロックみたいな路線にするってタイミングで、俺が<オーディション>に受かって働くことになったタイミングで東京に出てきた。その「ネペンタ」に、赤い皮パンをはいて、白いTシャツという目立つ出で立ち&物凄いミックスが上手いDJがいたんだ。


Q: <オーディション>って何ですか?(笑)

N: そのお店のレコードを規定時間内でチェックして選曲、お客さんがすでにいるフロアでぶっつけ本番でDJするんだ。で、その盛り上げ具合とかフロアの反応をみるんだよね。

勿論お客さんもオーディションかどうかなんて分かってない。誰かと競うっていうスタイルじゃない場合が殆どなんだけど、「シャカマンダラ」の時はオーディションを受けたのが2人だったから“どっちかを選ぶ”ってことになってさ。

その時は、先輩DJが審査員だったんだけど、実にイヤな空気だったよ(笑)でもね、その時は店のマネージャーがオーディションを受けた2人とも採用してくれたんだ。でも相手は帯広ですでに活躍してるDJだったからさ「おまえ簡単に入れると思うなよ」とかその先輩に言われちゃってさ。ドラマみたいだよね。

Rick James“Give It To Me Baby”、“Super Freak”とかPatric Russen“Forget Me Not”とかBB & Q Band“On The Beat”とか、かけてたね。西っぽい音楽で盛り上がってたなあ。東だったら、D-Train“Keep On”、“You’re The One For Me”とかね。



Q: D-Train“Keep On”とかもディスコでかかってたんですね。ダブのイメージが強いからあんまりかかりそうにないように思ってたんですけど。

N: そうだね、さすがにダブはかからなかったけど、お客さんでダブミックスをリクエストしてくる年配のマニアックなおじさんとかいたのは覚えているよ。

その頃は、勿論パラダイスガラージやラリー・レバン、デイヴィット・マンキューソの存在なんて知りもしなかったけど、このダブは凄く好きで良くプレーしてたね。

で、「ネペンタ」での仕事が始まったタイミングで、その箱ですでにDJしている先輩を紹介された。“ジョニーだ”って出てきたのが、あの赤い皮パン&白いTシャツの人で、本当にびっくりしたよ!おまけに、そのジョニーさんは、高橋透さんのルームメイトだったんだから、運命って凄いよね。その時は赤パンじゃなくて、普通のジーンズだったけどね(笑)“ファーマーズマーケットにいた、赤い皮パンの方ですよね!!”って思わず聞いちゃったよ。

でね、この人がDJがマヂでハンパなかった。その頃、Human League“Don't you Want Me Baby”が流行ってたんだけど、あれをダブミックスで2枚使いで40分位練習するんだよ。無茶苦茶影響受けたよね。 当時は夕方6時位にオープンして11時位まで一人でDJして、11時30分~0時辺りでもう一人に代わって朝までっていう感じだった。一人休みの時は夕方から朝までの通しでプレーしてた。その間、休憩が1時間ヘルプのDJが来たり。



Q: ディスコに入ったというか、会社に就職したみたいなイメージですね。

N: そうだね。そのディスコの大元の会社が結構大きかったからね。だから、勿論DJになりたい新人も入ってくるしね。一生懸命<選曲ノート>も書いたりしてたよ。


Q: <選曲ノート>ってなんですか?(笑)

N: 1曲目から何をかけたか書いておかなきゃいけなかったんだ。それを「サウンドラボ」っていうそれぞれの店舗にレコードを供給する会社があったんだけど、そこにレポートを提出する。そうすると、そのリストに基づいて「サウンドラボ」がそれぞれの店舗にマッチした新しいレコードをゲットしてくれるっていうシステムだった。と、同時に自分達が書いたリストを見て“選曲がマンネリ化してる”とか色々ジャッジしたりもする。

それぞれのお店にあったレコードを準備しつつ、それぞれのDJがどんな選曲でプレーしてるのかみていたんだね。10店舗以上ある会社の中でDJマネージャーって呼ばれてる人がいて、その人達がそれをやってた。当時は店の雰囲気とかを重視してたから、店用に準備されたレコード棚の中だけでDJするのが建前で、あんまり私物のレコードを使っちゃいけなかったんだよね。



Q: 自分ではレコードショップにいって購入するっていうのは無かったんですか?

N: いや、お店用のレコードという名目で買ってたね。毎月レコード用の経費が決まってたんだ。

札幌の「シャカマンダラ」は毎週2千人とか入ってたから、レコードを買う経費も凄くあったので、ビルボードチャートの曲は勿論、もっとアンダーグランドなチャートとかもチェックして色々買ってたよ。この辺りは今回のMIX CDでライナーを書いて貰う予定の元マンハッタンレコードの小林が凄く詳しいよ。

東京に来てみたら、レコードの経費もそんなにないし、店のレコード棚にもそこまで沢山なくてさ。オーディションを受けた時もレコードの少なさにびっくりした。“東京って厳しいな”って、正直思ったよね。

「シャカマンダラ」は、DJも沢山いたから一人のDJがプレーする時間も短くて、加えてレコードも沢山あるって状態だったから、余計にそう感じたよね。札幌では、トップDJは1日1時間半位しかやらないけど生活出来ちゃう訳だからね。自分はというと、東京に出てきたけど、早くから店にいって掃除して、何時間もプレーするけど給料が安い。雲泥の差だったよ。



Q: ぶっちゃけ、東京にきてがっかりしましたか?

N: う~ん、がっかりはしなかったな。“厳しい”って思ったけど、それはそれで面白かったよ。

俺が入った会社はそういった状態だったけど、透さんとかがいた「玉椿」とかをやってた会社はまた違ってたからね。会社ごとに全然違ってたんだよね。

東京には2年位いたのかな?その間、沖縄にもDJをするために半年位行ったりしてた。透さんの影響もあって、その頃はすでにNYを意識してたんだと思う。

そんな状態で沖縄にいったもんだから、当時色濃く残ってたアメリカの雰囲気、文化にやられて、NYへ行く気持ちを固められちゃって。でも、東京に戻ったらお金も貯められないし、一旦北海道に帰ろうって考えていた矢先に、“札幌で新しい店をやるからやらないか”って話がきた。もう二つ返事で“やります!”って。で、札幌に戻った83年、20歳の時に初めてNYへ観光へ行った。

NYについては、透さんの話で聞いていたクラブ「セイント」にも行ってみたい!っていうくらいで、予備知識もなかったけど、もう本当にカルチャーショックだった。

音楽は勿論、DJスタイルだったり、「セイント」がゲイクラブだったっていうのもあるけど、当時のカルチャーがあまりにも進化し過ぎててショックだった。

照明はプラネタリウムみたいだったり、当時ドラッグもすごかったからね。ブースはエラいことになってたよ(笑)しかもどこで曲が変わったのか全く分からない超絶ミックスで。。。文化から何から何もかもが違いすぎた。

3週間位いて、帰国するんだけど、帰ってきた自分のリアルな環境とNYの差に愕然としたよね。“この現実はなんだ?”って(笑)

東京から戻るきっかけになった店は「ラッシュ」っていうバーだったんだけど、制服とか着せられてたから余計にそう思ったよね(笑)結局辞めちゃったんだけど。


その後は「イスカンダル」っていうお店に、現在でも札幌で“HAKATA”っていうお店をやってる、“TOKUさん”という人に誘われて入ったんだけど、TOKUさん自身が辞めちゃって、おまけに自分がNYへ行った時の話をしたら“NYに住む”って言い出して、結局NYにいっちゃってね。他にも、人間関係とかで色々あって、そこは辞めたんだ。

そうこうしてたら、「マハラジャ」が札幌にできるっていう話が出てきて、そこでDJをやらないかっていう話がきた。ライティングのショーをやったりとか、企画自体も面白そうだったし、すでにDJ HEYTA辺りともつるんでたから、一緒にやれたらいいなって思っていた矢先に、札幌より先に熊本に「マハラジャ」ができるってことになって九州に行くことになった。会社の寮に入れたし、給料も良かったし、レコードも沢山あったしで楽しかったんだけど、やっぱりNYの事が頭を離れない。“あの街は一度住まないとだめだ”って結論になって、86年23歳の時に住むためにNYへ行ったんだ。

俺が最初にNYへ行った83年当時に透さんが働いていた「NISHIレストラン」っていうところにいたホゼってスパニッシュのやつがいてね。「セイント」の話をしたら、“そこよりももっとヤバいとこがあるんだ”っていうんだよ。“どこなんだ?”ってきいたら「パラダイスガラージだ」って。

透さんからあれほど聞いていた「セイント」よりも凄いところがあるって興奮したよね。で、ホゼに連れて行ってもらう約束をして楽しみにしてたんだよ。

なのにさ、ホゼがさ、約束破りやがって。で、「パラダイスガラージ」に行けなかったんだよね(笑)透さんも当時まだ行っていない「パラダイスガラージ」だよ。さっき話しをした「イスカンダル」のTOKUさんにその話をしたら、NYから“お前の言ってたパラダイスガラージ行ってきたぞ!マヂでヤバいぞ!”って、電話がかかってきた(笑)



Q:みんながパラダイスガラージを知るのはもっと後なんですね。

N: そうだよ、全然後だよ。「ADLIB(アドリブ)」という音楽雑誌でミッシーナっていう人がNY特集をしていたり、「MUSIC MAGAZINE」や亡くなった今野雄二さんも「イレブンPM」でNYのことを取り上げるようになったり、段々知れ渡っていったんだ。

さっき、札幌にいた時人間関係でもめたって話をしたでしょ?俺的には男としてそのリベンジを果たしたかったんだ、札幌で。当時マハラジャの対抗として規模がデカい、「エキシング」っていう箱が出来るって話があったんだけど、そこにDJ HEYTAと誘われたんだ。NYには1か月位いたんだけど、まずはそのリベンジを果たしてNYに住むのはそれからだと思った。

結果「エキシング」は凄くお客さんも入って上手くいった。その頃かな、“ハウス”が出てきたのは。





Q: 初めてハウスミュージックを聞いたのはNYですか?

N: 85年位のNYだね。勿論当時はハウスだけじゃなくて、色んな音楽と一緒にかけるって感じだったけどね。

J.M SILK“Music Is The Key”とか、Phyllis Nelson“I Like You”が出始めだったけど、やっぱりハウスはシンプルだし、リズム感も全然違うし、2枚使いとかでプレーされると、延々とダンスさせられる感じがしたし、とにかく他の曲と全く違った。日本に戻ってからはFingers Inc“Mystery Of Love”とかManuel Gottsching“E2-E4”とか、ガラージで聞いた曲をかけたりしたよね。今と違ってこの辺の曲でハマれるお客さんも少なかったけどね。



Q: 今となっては“E2-E4”とかクラシックスですけど、当時何も知らずにあの曲がかかったらびっくりだったでしょうね。

N: そうだよね、びっくりしただろうね。色んな曲がかかる場所だったから「アールズバー」でやってる時とかかけてたよね。で、段々ハウスが浸透してきて日本でも良く耳にするようになっていった。



Q: NYのハウスシーンもその頃からいわゆる“暗黒時代”になっていくんですね?

N: そうだね、ダークな時代が始まって行くね。85年にNYへ行ったときに友達と二人で金曜日連れだってガラージへ行ったんだけど、全然お客さんが入ってなくて。いつも混んでるだけに“こんな日もあるんだな”って思った。いつも行ってたのが土曜日だったから、曜日が違うからかななんて思ったり。

で、朝方になってフロアが少し明るくなってきてよく見たら、人がいないんじゃなくて、フロアに沢山倒れてた(笑)まあ、ドラッグだったんだろうけど、マヂで“ラリー・レバンって凄いな。”って思ったよね。“こんな事ってありなんだ”って、またしてもカルチャーショック。ツイーターが吊ってあって、低音も凄まじくて、でも柔らかくて。床もバウンドしたから踊ってても足が疲れないし。この辺が後のロフトにもつながっていくんだろうね。



Q: 良く言われる話ですが、ガラージは特別ですよね。伝説も沢山ありますし、沢山の人がそこで人生を変えられた訳ですからね。でも一方で当時のNYの街中、例えばラジオ曲も沢山あると思うんですが、どんな曲がかかっていたんですか?

N: 普通の人、っていったらおかしいけど、電気屋さんでレコード売ってたりとかもした時代だからね。ある日、HEYTAと一緒にW4からクリストファーに向かって歩いていたら、一見音楽業界とは無縁の黒人の太ったおばちゃんが、Serious Intention“You Don't Know”を爆音でかけてたりとかあったな。“これラリーかけてたっ”ってこともあったんだよ。ガラージでかかってた曲が電気屋から聞こえる、それがNYって感じだったよね。

Paul Simpsonがやってる曲だし、レーベルもNYを代表する<Easy Street>だっていうのもあるし、この辺は普通の人も全然聞いてるヒット曲だったよね。曲に温かみもあるし、シカゴハウスとはちょっと異なるテイストだよね、NYサウンドって。こんな風に言っていいのか分からないけど、85年当時のハウスって、NYハウスであり、ガラージハウスだよね。

街の中は、そんなホットなハウスと、R&Bとレゲエと、そんなのが良く流れていたな。でも、“ハウスばっかり”、“レゲエばっかり”っていう状況ではなくて、色んな音楽が流れている。それが当時のNYのイメージだね。





Q: 当時はダンスホールなんかも盛り上がっていたと思うんですが、レゲエとかはどうでしたか?

N: 透さんと良くレゲエの箱にも行ったよ。ダンスホールにもはまったしね。Gregory Issac“Telephone Love”って曲が流行ったり、Nicodemus“Bone Man Connection”とかね。



Q: 今回NORIさんにお願いしたMIX CDの最初のコンセプトは“NORIさんのNY時代”でしたが、何か中心になる“この曲”みたいなものはありましたか?

N: 今回の企画を貰った時に、87年~90年のガラージがクローズしていた時期をフューチャーしてみようかなって思ったんだよね。

というのも、シカゴに住んでいたフランキー・ナックルズがNYに越してきたりしてDEF MIXが人気になってきたり、グランドビートだったり、パラダイス・ガラージでDJをやらないラリーが「CHOICE」って場所で幅広い選曲でDJをしたり、なんか面白かったんだよね。ここはこの後、LOFTの場所になるんだけどね。音も良かったし、これはこれで凄く楽しかった。KING STのHISAの紹介でLARRYと一緒にDJしたのも「CHOICE」だしね。

でも、やっぱりガラージが閉まってからみんな辛そうだったな。いつも行ってた場所がなくなったんだからね。

「ラブライト」っていう箱があって、そこでDAVID MORALESがDJしていて、JOMANDAやTEN CITYのライブもあった。NICK JONESも働いていたんだけどね。雰囲気も良かったけど、なんか踊れなかったよね。如何せんガラージと違い過ぎた。ガラージが凄すぎたんだ。無くなってからガラージの存在がどんどん大きくなってしまったよね。これはラリーも一緒だと思うんだけどね。

だからといってみんな音楽を聴くことをやめるわけじゃない。ガラージが無くなったことの反動で、聞くようになった音楽、その頃の音を今回のMIXCDにまとめてみようと思うんだ。

その頃はまだ音楽も今みたいに細分化されてなくて、色々なジャンルが同一線上に並んで聴けた時代だから、NYハウスは勿論のこと、UKハウス、レゲエ、クラシックス、グランドビート等当時良く聴いた曲をチョイスしようと思ってるよ。



Q: 結構なヴォリュームになりそうですが、CD一枚で収まりそうですか?

N: ガラージが無くなった後とは言ってもここを切り離して作るのも不自然だしね。ガラージや他のクラブでも良く聴いた曲から流れをつけて行きたいから、2枚組にしようかな。



Q: それはヤバいですね!最後に、MIX CDのタイトルどうしましょうね?(笑)

N: そうだよね(笑)まず決めた方が作りやすいよね。

俺がNYに住んでた2年間と日本に戻ってきてGOLDでDJしていた頃、MAKI&TAIKI君達と一緒にファイヤーストリートの「DJ'S CHOICE」で働いていた1年間を併せた3年間。ラリーと一緒にDJした「CHOICE」、 東京に戻って働いてた「DJ'S CHOICE」。

俺がNYにいた時代の曲を“CHOICE”(チョイス)するってことで、「DJ NORI's MY CHOICE」にしようかな。





Interviewer : Yuka Noguchi (Manhattan Records)
Photo : Ena Yanai (Manhattan Records)




DJ Nori's My Choice
Mixed By DJ Nori
Legends Mix / LM-001 / ¥2,380 (TAX IN)

11月上旬リリース予定!